コードギアス復活のルルーシュ感想【ネタバレあり】哀しき魔女が明日を得る物語
昨日、ついにコードギアス復活のルルーシュが公開されましたね!
八マって1年の新参ですが、さっそく見に行ってまいりました。
駅にあったポスター!ちなみに、地方なので埋まり具合はなんとも。
まず、ネタバレない程度の感想。
ざっとまとめて、
・ファンが見てみたかった胸アツシーンの凝縮
・これまでの要素を活かした新舞台でのストーリー
・おさまりはよく、これから未来も気になるエンド
って感じでした。1回目の視聴時。
おもしろかったし、楽しめた。
けど、泣けなかった。
というのがわたしの感情です。
泣けなかった理由として、午前中に3部作見直したんですよ。アニメの終わり美しいよね。それかと思います。会場内が暗転したときのはじまりのドキドキは、次第に見ながらおさまってしまった。意外と序盤でまじかwってなるし。予想通りだったけれど。
反逆のルルーシュで、作品はひとまとまりで終わってて、それが最も美しい終わりだったと証明が成された感じはありました。
そんなの、監督が一番わかっていらっしゃると思います、
今回のコードギアスは、劇場三部作の続きで「別物」と強調されてますし。
そんななかで、個人的には、「最適解」ではあったように思いました。
一般向け・ライトファンとコアファン(オタク)の間を縫って、うまくまとめたらこうなったんかなと。
プロモーションの仕方見てても、それなりに一般新規も取り込みたかったんだろうな。まあ10年前の作品やもんね~と。
ただ思うところはあったので、思ったこと書いときます。
【ここからネタバレ】
時間が経って、考えるにつれて悶々としてきたわけなんですけれど、
考察云々はとりあえず置いておくとしても、
①公式がルルCエンドを選んでしまった
②ルルは許され、スザクは孤独へ突き進む
③シャーリーに人権がなさすぎる(描写が雑
④案外わちゃハッピーシーン多くて、パラレル…二次創作感が強い
が悶々の理由に挙げられるかと思います。
④はいい点でもあるけど、ヒドイ言い方すると、「二次創作の域を出なかった」と思っちゃいました。
「ファンの願望」の再現をすごく感じました。もちろん嬉しかったよ!
例えば、ルルーシュの前に立ちはだかる苦戦するほど圧倒的な敵との戦い、共闘するスザクとカレン(これはヤバイ)、復活したルルーシュが再びゼロとしてカッコよく人々を率いる姿。
スザクとルルーシュのお互いがお互いとしての再会と会話!カレンや扇とも、なによりナナリーもやっと言葉を交わすことができた。
そして何より、平和な結婚式の様子や扇の子供、ナナリーの笑顔…、ルルーシュが命を懸けて守った「優しい世界」の実現。
わたしも「奇蹟の明日」が見れて良かったよ~😢
ファンが望んだゼロレク後の姿や、「もしもルルーシュが生きていたら…」がめっちゃ詰め込まれてる。カレンが抜け殻に泣いて抱きつくシーン良かった。
そしたらこれって、公式様映像化してくれてありがとう!ではあるけど、やってどうすんだみたいなことになっちゃう。超えて欲しかった。いや嬉しい!が8割以上だから叩かないでほしいんですが。個人的な意見です(逃げ)
①ルルCエンド、というかLCエンドですかね?エンドロール後のやつ、二次創作でみ……
わたしC.C.大好きなんですよ。嬉しいんですよ!
まず劇場三部作で「ナナリーが幸せに暮らせる」「優しい世界」を創り上げることを完遂して死んだルルーシュにとって、あとの心残りはC.C.との約束ですよね。
だから、続編である映画で、復活する理由は「C.C.との約束の履行」がほとんどだから、C.C.とルルーシュメインで、ああいうエンドになるのは必然だと思いました。
ただ、カレンとルルーシュ(ちゃんとサヨナラしてるから良し?)、スザクとルルーシュ、ナナリーとルルーシュ、あたりちょっと足りて無くないですか?ってなりますよね。いちばんはシャーリーとルルーシュね!!!!!
特別その組み合わせが好きだった人たち、死んじゃってませんか?(何人かTwitterの海で死体を見ました)(いちばんはやっぱりナナリーについてかなあ)
ただ、そもそもルルーシュ、生きていたらいけないし、人間とはもう別の理で生きているんですよ。ギアスで王の力を得た契約時からそうですけど、シャルルのコードを引き継いでがっつりCの世界と繋がっているルル―シュってもう完璧に人間ではない…
人間であるナナリーやスザク、カレンたちとはともに生きていくわけにいかないじゃないですか。だから彼は悲しませないために、悲しまないためにC.C.との道を選んだんだ、と思いました。
あと、一応、彼女が一番の悲しみと苦しみを背負ってきた人物なんですよね。長い時を孤独に過ごして、死にたくいと願いながら死ねず、痛みをずっとずっと抱えてきた人物。普通の人間には、救いのようのない存在。
彼女を救うには、もうルルーシュしかいないんですよね~と思っています。
かなりC.C.主体の内容だと思います。
二次創作するひとの嘆きを見ていると、どうしても、良かったんかなあ、という気持ちになってしまうんです。(特殊事情)
ナナリーの涙と天秤にかけないで欲しかった、という意見を見ましたが、それも本当ですよね。ゼロレクまでのルルはどこへ行ったんだ、と。一つの答えは、もう死んでいる。前述した通り、復活のルルはC.C.の約束が生きる理由なんだろうと思います。
あとは、「3人で暮らしましょうよ、昔のように」ですよね。過去にはもう戻れない、明日が欲しい、と願って戦ってきた彼ですから、昔には戻れないんだと思います。リスクを考えて、今日をとることもできなかった。明日を生きるには、もう同じ存在であるC.C.しかいねえんだなって
というか(不完全だからどうかは分からないが)不老不死になった彼にとって、もう「時間」は意味をなさないともとれる。
まあ、それにしたってスザクくんは最後の最後も我儘言ったりしないのね。やりたくない重責背負わされてね。
②ルルは許され、スザクは孤独へ
ルル、許されすぎでしょう。てか周りもルルに謝る言葉を交わすことで救われているんですけれど、スザクが本当に孤独だな!?と思いました!
エンドロールのゼロのイラスト見ましたか、そばにいるのネコとイヌ。寄り添ってくれるひとをもはや求めていないのかもしれませんが!
スザクファンは怒っていい。
版道で見られるスザク自室の狂気のユーフェミア絵画ですけど、あそこまで来ると呪いだよ
彼ものすごい重たいもの背負って背負って…背負い続けてますね…本人罰せられたいにしたって重すぎだろうが…ちゃんとユフィの遺言通り学校には卒業まで通ってほしかったもんです…
したがって、とある方の言葉をお借りすると「ルルーシュとスザクの罪と罰が釣り合っていないと納得できない」って本当に良い表現だと思うんですけど、
いっぺん死んでるにしてもルルーシュくん、君幸せな感じになってない?って思っちゃいますね。君の呪いでスザクくん本物の孤独だよ。本人、「やっぱりさみしい」くらいにしか思ってなかったけどな。
これに関しては、この方の感想めっちゃ好きでした。
ねえスザク!?ルルーシュ行っちゃうよーーー!?!?!>ほんとにな。
待って、でもここまで書いてて思ったんですが、
だからスザクにゼロを頼んだんですね。贖罪の方法を与えたんですね。彼はゼロじゃなくても孤独、枢木スザクはもう存在しない存在してはいけない、
スザクが明日を見るためにはゼロの仮面が必要。ルルーシュごめん、あなたの意図はそれなのね?
いちばんの問題はシャーリー!!!君だよ~~!!!!!ってなってます。これはヤバイでしょう。ルルシャ?好き、見たら狂うのでは?
③シャーリーに人権がなさすぎる
劇場三部作でもそうですが、シャーリーの立場どこへ。いろいろ描写足りていないのに、C.C.に使われる女の子ですよ。気持ちを利用されている、といっても過言ではないレベル。
シャーリーが生かされた理由、「足が付かない一般人の事情通が必要」だったからでしかない、ようにしか見えない。わたしが見逃していなければ。
シャーリーはルルーシュが好きなのね、って描写が続けられ、「ずっと好きだから!」ってはちゃめちゃに一方的な好意押し付けてる女の子みたいじゃん。そういえば、劇場3部作の舞台挨拶かイベントか?で、「ルルとシャーリー付き合ってました」って監督から暴露があったらしいですが、それ生きてる場面あった!?!?!?ってびっくりしています。アニメでもルルを激昂させる要因みたいな死の扱いだった(と思う)ので散々ですが…
これに関してはさすがに一人の乙女を雑に扱いすぎです。出すなら出すで彼女じゃなきゃダメななにかがいったでしょう…、分かるけどね!ゼロをルルだと知っていてなおそれを守り、ルルを大切に思う、組織に全く関係してない一般人って彼女しかいない!それでもシャーリーの心はどうなっちゃうのよ~!
エンドロールのシャーリーがおそらくルルからの連絡受けて嬉し涙流してるイラストで免罪符になるとか思ってたら大間違いだからな、むしろ火に油だよ
ちゃんと連絡してくれてることは分かって良かったけどな!!付き合ってたんだもんな君ら!しかも協力者ってことはルルの体があることは知ってるからな!!!!
という、結構不快一歩手前でした。ルルとC.C.が共に行くのに、恋する女の子で隣に居たかった子が扱いひどすぎるでしょう(3回目)
とにかく、これは一応2回目に行かなければと思いました。映画館遠い~地方オタクはつらいよ。
特にコチラの予想・考察は見ごたえがありました。めっちゃおもしろかったです。すごいなあ。物議をかもしそうなルルーシュの行動にもほぼ説明がつく。
コードギアス復活のルルーシュ、もうあのルルーシュはC.C.に再構築された別人であり、元のルルーシュではありません。
これを読んだうえで、今回の裏テーマ的なものは、
劇場3部作までのテーマ「人間はたくさんのペルソナをもって生きている」、そしてゆえに「ひとりの人間が見る世界は一側面でしかない」ことを言っている可能性は大いにあると思います。私たちは自分勝手に世界を見ている。
もしこれを前提にしたとすれば、C.C.は自分勝手に人間を自分の思うままのルルーシュとしてよみがえらせてしまったことになる。ものすごい禁忌でしょうこれ。しかも本人、望んでいるのか分からない。何という傲慢だろうかと、まさに神に匹敵するものだと思いました。そう考えるとマジでホラーですね。
ちょっとさらにこれ前提で深めると、ルルーシュがキリストのようだなと思いました。危ないこと言ってる自覚はあります。
彼は、ゼロレク前の世界のすべての罪を背負って死に、新たな世界に復活してきた。でも彼、神様の使いでしかないんですよ。なんだかルルーシュはもうCの世界のひとつとして再臨しただけのように思えます。Cの世界において、シャムナという危機を退けるための使いだったかも、なんて…
復活のルルーシュの世界線は何故たったの一年後でなければならなかったのか
同じ方が、さらにおもしろい考察していました。
スタッフ苦しんだろうなというのは、わたしですら思いました。コードギアスって作品が、のちシリーズとして愛されてほしいですね。
細々しゃべっただけだったんですが、総括して、C.C.主人公のルルと生きたい少女のワガママのお話だったように思いました。
L.L. とはまた物凄い存在を生み出してくれたものですよ、本当に。
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最初にお断りしておくべきだったんですけれど、わたしは本当に新参で、1年しかコードギアスという名作に触れていません。
リアタイしとけばもっと面白かっただろうに、もっと深まっただろうにと後悔して止みません。まあ当時まだ義務教育の年なんですけど(笑)
10年待っていたひとたちにとって、どう映ったのかは分かりません。
最後に載せた考察のように、ギアスを次のステージに送るための、ギリギリの策だったのかもしれません。
ただ私が言えることは、これだけ長く愛されている作品は本当にすごいなと、そして触れてみて、本当におもいしろい良い作品だと思いました。
なので、これで終わらず、コードギアスシリーズ見たいし、これからも長年のファンの皆さんに愛されて行ってほしいなと思っています。どこ目線なんですかね。
とにかく、わたしもファンの末席を汚す存在として、まずは映画をもう一度見たいと思います。
名前をつけてくれるから。ー『FAR』を聞いての感想
先日、一週間前、植田真梨恵の『FAR』が配信された。
5周年YEARの幕開けを飾る配信シングル、として、
アルバムから、先行配信された、この『FAR』という曲。
今日、PVも解禁された。
いろいろ気にしぃなので、せめてものイメージ図。
ということで、書きたくてしかたがなくなっっっっちゃって、
書かないと、また、明日へいける気がしなくて、、、(弱くなったなあ言い訳だなあ)
『FAR』
配信日、お昼にさっそくDLして
おうちで聞いて
泣きました。
嬉しくて、切なくて、
真梨恵ちゃんはまたわたしの気持ちに寄り添ってくれるんだなあ、って
安心して。
言葉で、強く抱きしめてくれた。
その力がすごくって!苦しい、苦しかったけど。だから泣いちゃったんだけど。
痛みが伝わる。これはわたしの痛みだと錯覚するほど
「想像では無敵だった」
「どんどん大切になった 失うものとなって」
「簡単に強くなったり 毎週末不安になったり」
「一過性の熱しかもう残ってなくて」
「よくわかんないものにこだわって
守ってた殻しがみついて
弱い想像でまた泣いて
朝が来たって絶望して」
わたしのいまに言葉をつけてくれていて、あまりにタイムリーすぎてどうしていいかわからなくなっちゃいました。
夢を追いかけて、遠くを、目指して走ってきた。
遠くを見つめて、「ゆめ」を見て、そんなものに実体はなくて、
不安に飲まれて、見えていたはずなのに見えなくなって、
希望がまた不安と表裏一体で 遠く遠く遠いから。
これは彼女の歌。「夢を追う人」の歌。
だからこんなに痛いんだよね 分かるんだよね。
先が不安で仕方なくて焦ってるいま
あまりに「わたし」がそこにいる。
わたしのそばに寄り添ってる。そんな歌だと思いました。
最後に、ブログから。
とにかく私ならわかってあげられるかもしれないさみしさみたいなものに
形を作って息を吹き込んであげることで
どこか隅っこで誰にも言えずに抱えている思いに名前をつけてあげられるかもしれないと思った。
こんなひとがうたった歌、泣かないわけないじゃん
いつも、「思いに名前をつけて」くれるから、泣けちゃうんだね
『FAR』―――「遠くへ」
もっともっと遠くへいってほしいな 遠くへ響かせてほしいな 真梨恵ちゃんの歌。
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先日のFMOH!のLOVEFLAPでゲスト出演されてて、彼女、こんなこと話していました。
「みんないっぱい切ない思い抱えていると思いますんで、そんなときにそばにある曲をいっぱいつくっていきますんで。」
圧倒的安心感。やっぱりわたしの真梨恵ちゃん論間違ってねぇ~!(本人ずっといってるのに何が論だか)
変わりながら、変わらない曲をいっぱいかいてほしいです。
あ、「softly」はララさんのお歌なんだって
お別れを意識するようになって、いなくなってしまう前に「幸せな優しい時間」を書いておきたかった。そうです。
うちにも猫さんがいるんですよ、りりってんですけど。年は12,13かしら。わたしもなにか書いておこうかな?
「スペクタクル」な、考察みたいな。
最近、文章を書くことにハマっています。
やりたいことはいくらでもあるけど、やれることはいくらもないから、先日言ったことを有言実行しようかなあ、っと。
そんなお暇がありますの?ないんですけれどね、
むずむずすることって珍しいので、思う存分、かいてやろうではないか。
我が家の4th single「スペクタクル」。CD派です。まりえちゃん可愛い。
今日は、植田真梨恵の「スペクタクル」を感じるままに、ちょっと調べものしながら。
まりえちゃんの歌って、メッセージはガンガン熱くて伝わってくるんだけど、言葉の意味はぶっちゃけよくわかんない。
もともと「どういうことだろう」って、新曲リリースのたびに毎度考えるんですが、やっぱり、よくわかんない。
そしたら、先日の記事を書いてるときに「スペクタクル」はピコーン💡ときた。ストレートに書きました、って本人が言ってるからね、きっと分かりやすいうちのひとつなのだろうね。
ばりばり参考になっちゃいそうな、ナタリーさんのインタビューもあることですし、ばりばりに使っちゃいながら、無茶せず自分なりの解釈を試みる。
自分なり、重要です。「歌は世に出た時点でそれぞれの人のものになる」…ですからね。
まず、まりえちゃんは、どういうメッセージを込めて「スペクタクル」を書いたのか。
ナタリーさんの紹介では、
2016年第1弾シングルとなる今作は、「向かい風でも歩き続けよう」という力強いメッセージが込められた軽快なロックナンバー。
とのこと。
歌詞にもドストレートに表れています。
冒頭の「つまりは それでも 信じる それだけのことで」や、サビ「ここから抜け出そう 新しくなるよ」とか
インディーズの曲からすると、言いたいことを、そのまんまの言葉で書いているなあという印象。装飾もシンプル。インタビューからも、努めてそうしたことが分かります。
総じて、「うまくいかなくっても、とにかく信じて、やってみよう。ちょっと振り返ってみたり。そのうち抜け出して、新しい壮大な先が見えてくる」って感じかな。
そんなわけで、とりあえず、そこのお方、
曲をお聞きなさいな。PVを見てくださいな。
インタビューでも前半で多く語っているけれど、この曲はそのまま、まりえちゃんの曲作り、日常を切り取った歌なんだなと。これで分かりやすくなったぞ。
それをもっとスペクタクルに…壮大に…広々した世界に落とし込んだんですね。PVの砂漠や、歌詞の「雷鳴が響くよ」「海が割れるよ」…
これまでのPVとは打って変わって、海、砂漠…とっても絵がシンプルで、かつ大きい。
見返していて、「珍しいな?」と思ったら、やっぱり珍しい。ほかのPVでは、小さな世界や夢の世界、そして必ずと言っていいほど「身近なモノ」生活の中にあるもの、場所も雑踏の中であるとか、日常を感じるものが登場しています。
いつか、曲作りのテーマとして「寄り添える」ような歌を、と語っていたと思うんだけれど、そういったこともあって、ここまで遠い物語を描くことってあんまりなかったように思う。
ちょっと似たアップチューンな、ひとつ前シングル「わかんないのはいやだ」でも、明るく、自然の中で広々とした世界にいても、ベッドや洗濯物、日常が見える。
こう見ると、「スペクタクル」って、結構、彼女の作品のなかで異質なのかもしれない。
4分12秒の歌を生み出す、それが世間から見たらひとりの内なる小さなことだとしても、
まりえちゃん…自身からしたら、とっても大きな世界での壮大な旅だったのかも。どっちへ行くまいか、その指標も見えない地平線。彼女にとって、うたをつくることってきっと彼女の世界のほとんどだから。
インタビューで「もうできないと思ったんです、ポジティブな歌が。」と言うくらい、日々の悩みや変化で揉まれて気分が沈んでしまっていたそうな…。そりゃあ、一大事です。
その人自身にとっては、その状況って悩みって、とっても大きなもんなのよってことかしら。とってもよくわかる。
そして、やっぱり印象的なサビについて。
「雷鳴が響くよ 海が割れるよ 道ができるね」
海が割れるって言ったら、やっぱモーゼの「葦の海の奇跡」?
ユダヤの民が約束の地カナンを目指してゆく途中、彼らを率いていたモーゼが海を割って彼らを通し、追ってきたエジプト軍は溺れてしまった、という旧約聖書の昔話。
神のお告げにて約束された場所へ向かおうとしていたわけで、まあ、その点においても希望への旅路なわけですが、
前には海、後ろには軍…「絶望」…、そんななかでモーゼの起こした奇跡は、まさに救いだったはず。
暗雲のなか、雷鳴のような出来事があったのだろうか、海が割れて約束の地への、希望の道が開ける。
まあ、まだそれでも、「やまない雨模様 風はやっぱ向かい風」らしいんですけれど。大変な旅だ。
「海が割れる」なんて大袈裟すぎて、なにか意味があるんじゃないか…と推測したけど、あんまり関係なかったかもしれない。わたしの厨二病がバレただけだった…
このあたりについて、インタビューでは、
ただ、前向きにと言ってはいるものの、実際にこの「スペクタクル」で描きたいのは、なるべく五分五分の状態なんです。歌詞の「雷鳴が響く」「海が割れる」「道ができる」とか、いいこととも悪いこととも言い切れないですよね? 私はそういうふうに人生を捉えているので。
モーゼが奇跡を起こしたことで、ユダヤの民は希望へ進めるんですが、エジプト軍は海に飲まれてしまうんですよね。神様怖いなあ。だから「いいこと」ではないな、と思ったりした。
ここで述べられている『五分五分の状態』を描く…、きっと「変わる」こともそのひとつ。
先日もお話した通り、「変わる」っていいことだけじゃない。痛みもともなう。
それは、PVにも表れていて、時折、遠くを見る…過去を見ては、おもちゃを壊し…進むごとにおもちゃを壊し…失う……
新しいものを求めていくために、捨てなければならないものや大切にしていられなくなっちゃったものが、まりえちゃんにもあったのかもしれない。それはこれまでのスタイルでしょうか…そういえば、メジャーデビューして、テイストはずいぶん変わってきたと思う。
それに、時の流れの変化は、ほかにも歌詞のなかに。1番から2番で、おとなになっていく。
「”何も持っていなくたって しあわせだった” ゆりかごの外で」
子どものときって、まあいろんなひとがいるけれど、家族が愛してくれて与えてくれて、持たざる者として不安になることはあまりないんですよね。
わざわざ意識しはじめるのは、ゆりかごから出て、周りを見ていると、その差を感じるようになる。
あと、たくさん持つようになって、それが大切になって、いずれなにか…お金なのか具体的なモノなのか家族友人…、持たないことは、不しあわせになる。
変わることで、得ると同時に失うんですよね。
「知らない遊びをしようよ あなたとわたしで」
2番はじめ、おそらくは、ここでおとなになる。あなたとわたしふたりでする、知らない遊び。象徴的に考えて、ちょっと無茶かもしれないけど、対比、時の流れからきっとそういうことだろうと。
PVでは、砂漠に木が生えてる。なんもないとこからはじまり、背の低い植物がはえて、成長してる、と捉えるべきか。すると、まあ地平線よりは、遠くは見渡せなくなったけど、自分の居所を判断するための指標ができてくる。そんなところでしょうか。
うーん深読みしすぎな気がしてきた。
おとなになって、自分が徐々に定まってきて、そしたら、
「懐かしい所へ出掛けよう このまま裸足で」。ありのままで、過去を振り返ってみる。
「変わらないとこがあって 嬉しくなるのは 変わりつづけるから」ってはじめて気付くんですよね。
変わることがどういうことか。変わったことにも、振り返ってみてやっと分かる。
ふるさと帰って、新しい家いっぱいが建ってて~、でもむかし遊んだ公園とかよく行った駄菓子屋とか見たらやっぱり、変わってないなあ!って嬉しくなっちゃうもんね。と同時に、(あれ?もっと大きかった気がするんだけれど)。わたしが大きくなっていました。
おとなになって、やっと振り返ってみるような余裕もできるし。子どものときって、やっぱ今が一番だいじに思っちゃう。遠く…夢とか…を見て、無謀に歩きまわってさ。
まりえちゃん、「歌を歌いたい」って高校から大阪なんだよ。スゴイよね。わたしにはできないし、ちょっと無謀。高校から都会でひとり暮らしなんて、怖くて、わたしが親ならさせられないなあなんて思います。
2番サビで、PVではじめて海が見えます。世界が広がっていく。
砂と空だけだったのに、もうひとつの壮大な世界が見えて!海の向こうには新大陸が待っているかも、なんてね。
「空は紫色 不思議なお天気で」PVからして、夜明け前かな~…日の出直前って綺麗なむらさきですよね。不思議なお天気、は気分のことかな~
「何かが呼んでるよ」目指す目標が見えたのかな~
ちょっと曖昧、むずかしかった。
歩いてきたら「風はいつしか追い風」になって、
1番で飽きちゃって、「ぜんぜん終わりがない」って思ったら、「だんだん慣れてきたね」って。毎日、向かい風に立ち向かってたら、自分も強くなりますわな。
そういえば、自分も人前で話すことにはずいぶん慣れてきました。思えば向かい風ばっかだった。たまに嵐に崖に…だったな。
変わることを受け入れられる「ずっとそばにいよう」って言えるくらいになってきて、
「両目瞑ってみよう」自分と向き合うってことかな~ ここは自信がない。でも、目標が見つかったなら、周りに惑わされず、自分のなかで磨いて、洗練させていく時期なのかも。
「信じられない! スペクタクルな展開で」
うまくいったかと思いきや
「それでも 信じたい」って言ってるから、驚くような意外な方向が見えちゃったのかも。
とにかく変化を受け入れて進んでいくしかないとふと思ったときに、やっと前向きなテンションになって曲が書けましたね。
「信じたい」のときに、分かりやすく時計が出てきます。時を刻めば、歩みを進めれば、道は開けるって信じるんだっていう強い意志、確信なのかもしれない。その分、失うものもさらにでてきちゃうけれど。
最後のサビで、「風はやっぱ向かい風」に戻っちゃうんですよね。なんて厄介。
「雷鳴が響くよ」でも海割れてくんないし、それでも「まだまだ歩くよ」進んでいけるんですね。強く信じることができたから。
奇跡なんて起きなくても、
「ここから抜け出そう 新しくなるよ
目にもとまらぬ スペクタクルな スペクタクルな展開で」
強い風にも前を向いてゆける、
PVでは、夜明けがやってきて。歌は終わり。
「スペクタクル」は、たしかにこの歌を生むときの苦悩が基本軸「悩んで悩んでいずれふと答えが見つかるから信じて進め」ってところだけれど、全体として、彼女の夢の旅の途中なんだなと気付きました。というか、この時点で改めてこのことに気が付いて、信念のようになったのかもしれませんね。また、夢の旅を通して、感情をあるがまま詞と歌にぶつけて、言葉を飾っていたこどもの彼女の歌が、徐々に洗練された美しいおとなになっていく。
インタビューのおわりに、歌を歌い始めて10年になるという2016年の目標を聞かれて、
高校生の頃は自分の思いをとにかくぶつけるっていう感じで曲を作ってたんです。そこからCDを何枚も作らせていただいて、いろいろ学んで、曲を仕上げる楽しみ方も覚えたので、2016年はその両方を併せ持つ、すっごい曲を書きたいと思います(笑)
と答えていた。やっぱり、メジャーデビューして歩んできたなかで、磨かれてきて、振り返る機会だったのかもしれない。それこそ、自分を呼ぶ何かが見つかったのかも。
4th single「スペクタクル」以降、「心と体」とか「SOS」のような、ガンッガン激しくギターをかき鳴らして、強く強く叫ぶような歌はあまり見なくなった。まあ、心と体はそれこそ暗闇の中での曲だからなおのこと激しいんですけれど。
特にいちばん最近の「勿忘にくちづけ」は清流のような歌ですよ。朝の心地よい、すこしんやりとした穢れの無い空気のような歌です。花びらの上の朝露です。好き。
「曲の雰囲気変わった」って言うひとも多いし、わたしもそのように感じるし、インディーズ時代のような曲を大切に持ってはいながらも、それは過去として、
これからも新たな道へとゆくのだな、美しい歌を生むのだなと、
考えて、しんみりいたしました。
タイトルの「スペクタクル」、
一般に光景,情景を意味する英語であるが,狭義には視覚的に強い印象を与えるもの,~語源はラテン語のスペクタクルムspectaculumで,見物席,劇,光景などの意味をもつ。具体的には地震,洪水,火山の噴火などといった天変地異,火災,戦争,あるいは巨大な山や滝のような自然の風景などが考えられ,動きや変化を伴う場面が多用される。
出典:株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版
「強い印象を与えるもの」壮大な世界を描くのにぴったりな語、
あのPVを描くにもぴったりな語、なんでしょうね。案外モーゼ説合ってるのかも。
小さな小さな、ひとには気付かれないような、わたしにとっては大きなことだから!
毎日の変化のなかで、すぐ過ぎ去ってゆくから!
「目にもとまらぬ スペクタクルな展開で」!
ーーーーーーー
今日仕上げる予定のレポートの2.5倍書いていました。楽しいなあ
改めて、言葉にして、ぐるぐる頭のなかから出してあげると、
見えてくるものは多い。
読みやすいようにって思ったのに 熱があふれちゃってダメだった。堪忍なあ
植田真梨恵に興味を持ってくれる人が増えることを願って。
”変わりつづけるから” ~ほんのついでの 植田真梨恵論
変わらないとこがあって 嬉しくなるのは
変わりつづけるから
―――――――――――― 植田真梨恵「スペクタクル」
今日、帰り道にふと口ずさんだ一節。
口に出した瞬間に涙が出そうになってしまった。
そもそもなんでこの歌が頭に浮かんだのか、と言えば。
昨日、帰省中に届いた、植田真梨恵ファンクラブ会報をやっと読むことができた。
そのなかのハコニワー(植田真梨恵ファンクラブ箱庭の会員)からまりえちゃんへ、インディーズ10周年お祝いメッセージの欄で、
この「スペクタクル」についてのことを思い出と共に書かれている方がいてね、それのせいだと思う。共感して。頭に残っていたのね。
それにしても、いい歌詞じゃないですか?ストレートでさ。
植田真梨恵の魅力は、「痛みや悲しみに寄り添う歌」を歌ってくれることだと思っている。自論です。それを感情むき出しで歌うから大好きで。
この悲しみや痛みっていうのは、まったく、特別じゃないの。
誰でも、日常で、生きていたら。なんとなく悩んだり、胸がきゅっとするような痛み。悲しみ。例えば、さみしい、とか。わたし普通だわ、とか。うまくやれないな、とか。
話しがずれたけど、この一節は、そんなののなかの、生きていて「変わること」が、良いことなんだけど、痛くて苦しいんだって。
わたしの胸に刺さったんですね。
特に、変わることを拒みながら、変わらなければいけない、そんなものを大切にしたいと願うわたしには。
そして、先日、ふるさとに帰省していたわたしには。
時が過ぎれば変わるし、成長も変わることと同じ。いいことなんですよね。
わたしも、変わりたかった。だから飛び出した。そして、変わったと思う。変えてもらったと思う。もっと変わらなきゃいけないと思う。
でも、変わって欲しくないこともある。大好きなものとか。
変わっちゃっていたんですね、家族が。目に見えて変わるとこもあれば、もっと感じたとこがあって。そんなに大変なことではないんだけど。
まあ、そんな個人的なことありながらね、わたしの夢とか、遠く離れた状況とかさらに変わっていくこわさとか、いろんなことに想い馳せていたんでしょうか。いまもうるうるしちゃってる。
ところで、前述のファンクラブ会報の回答はと言いますとね、
就活でうまくいかなかったところを「スペクタクル」に救われたっておはなしでした。
身近過ぎるなあ。
いまこれにふと気づいたのは、わたしに必要なものだったからでしょうね。
ナタリーさんの、まりえちゃんがリリースする際のインタビューみっけ。
刺さった答えがありました。
本当にめまぐるしく毎日が変化する中で揉まれていたんですよ。そういう時期に、それでも信じるしかないなと思って書き始めた曲なので、ポツポツと言葉をつづるような感覚で作り始めました。
自分の中で余裕がないときはいろいろと手放してしまいたくなるんですけど、そうではなくて、とにかく変化を受け入れて進んでいくしかないとふと思ったときに、やっと前向きなテンションになって曲が書けましたね。
そりゃあ刺さるよねえ。いやあ植田真梨恵の人生論、大好きなんだよなあ。
全部引用したくなった。いけない。気になったら読んでほしいなあ。
みなさんも聞いてね。
あの一節はわたしが植田真梨恵のうたう歌詞のなかでも、トップスリーにはいるくらい好きなものなんだけれど、
「スペクタクル」、ぜんぶがドストレートで、刺さるから。
ポジティブなメロディーにのせて、自分の痛み、歌ってくれるから。
荒野のなか、爽快な青空を歩く。旅人のようなPV。
まりえちゃんは、いつも、旗を振って、わたしを導いてくれるんですね。ついていきます。
どこまでも夢で、どこまでも現実だった半年間のこと
(この記事は10月28日に書いたものです
今なら出せるような気がするので、ひっそりと出します)
10月21日が過ぎて、もう1週間が経った。11月が目の前にやってきている。
あまりにも早すぎて、東京から帰ってきたのは昨日なんじゃないかとすら思います。
ライブを純粋に楽しんだ土曜日。始まる前に「はじまらないで」と泣いてでも「勝ち」で笑顔になれた日曜日。キャラのお別れを見守った月曜日、そのままイケるっしょ祭りに湧いた火曜日。
CDTVや注目ワードでTVに映っては気持ちが盛り上がって、TLも盛り上がって、この一週間ずっと楽しかった。
3月5日には想像もできなかった、10月21日の先の、
サイコーを超えた明日が続いている、
気がする。
今書かなきゃいつ書くのか、書けるのか、わからないから、書く。
これはわたしの、楽しくて、苦しかった半年間の話です。
私はいま、地方の大学生。独り暮らし。
ふるさとから新幹線でだいたい5時間の遠い地で、夢を追っかけています。
大阪までは高速バスで3時間、東京までは夜行バスで10時間。そんな田舎のいもっころ。
私とドリフェス!の出会いはかなり偶然で、運命だった。
きっかけは前ジャンルでフォローしていた絵師さんの「サイコー超えてる、全人類必修科目ドリフェス!をよろしく」というパワーワードの数々だ。
おかげでなんとなくアニメを見て、声の棒っぷりにびっくりして、でもなんだかおもしろくて2日で全話見てしまった。1期10話のオタクです。
そこからトンチキなアプリを始めて、曲に惚れて、………今に至る。
お分かりの通り、わたしはたった1年しか彼らを応援できていない。
1年もあるかな?キャストが好きになってきたのは1月頃だったと思う、それこそ「まあ行ってみるか~」って気持ちで見たツアーで撃ち抜かれてから。
それが苦しい。短い。あまりにも短い。ドリフェス!が大好きだと叫ぶ、周りのみなさんに比べて。
わたしが彼らを見てきたのは、あの3月5日からがほとんどなんだ。
わたしは果たしてドリフェスのために、なにができたんだろうか。
そんな想いが、ここ数日、いや本当は大好きだと言えるようになってからずっと
わたしを苛んでいる。
自分はずっとずっと、中途半端だ。
本気でハマったのは、ツアー大阪公演。
キャストが魅力的なことを十二分に知って、そこから落ちていくのは早かった。
大阪で大興奮したわたしはその日のうちに横浜の一般チケットを取って、夜行バスを予約した。
これが初めての、ひとりでの東京遠征。
関西圏はあっても東京まで出たことはなかったし、友人にくっついていくことはあってもひとりで行くなんてことはなかった。ぬいぐるみを買ったのも、初めてだったな。
やっぱり頑張っても1万3千はかかってしまうし、夜行バスは首痛くなるし4列シートはしんどいし、LCC使っても成田から都内が遠いし高いんだということも勉強になった。
ひどく後悔しているが、グッズはあまり買っていない。
大阪公演では、会場限定で今の推しのアクスタが出てたけど買わなかったし、キャスト缶バッジとか。ドリカペンラとか、ドリカも。白のツアーTも買えなかった。
ぬいぐるみは買っていてよかった。本当によかった。
事後通販で買えるだけのものは買ったけど、限定ものは本当に後悔した。
その時のわたしは、週3の塾講師バイトだけで、月4万あるかないかの収入だった。生活費は親の仕送り、娯楽費はバイト代。
わたしは夢、そしてその学問の専攻上、課外活動に重きがあった。視察や研修があって、それらにそれなりに時間とお金がいった。
平日は大学だが、週末はフィールドで実践する。そういう生活。
だからバイトは平日のみにしていたし、曜日固定でスケジュール組みが楽かつ急用に対応できるような職場を選んでいた。とにかく夢に邁進。
ツアーに行って、遠征して分かった。
これじゃ絶対にお金が足りないし、時間も足りない。
でもまあぼちぼちでいいや、って思っていた。
きっとこれからもいっぱい行ける。
そしたら、3月5日がきた。
アプリも少しずつ進めていたし、ファスライ円盤を見て、次のライブが楽しみで仕方なくなっていた時期に、あまりにも残酷な発表だった。
ただ、その前にあったアプリ終了のお知らせ、驚きはしたものの、実は納得していた。
その頃は徐々にランカーしていたレベルだったけど、アクティブの少なさは気付いていた。androidはラグがひどくて困っていたし。
でもツアー横浜の埋まり具合とか、ファスライの売れ行きとか、アーティストとしての完成度の高さに驚いていたので、まさか。
ハマって数か月のくせに泣きじゃくった。なんで?って友達に泣きながら電話した。
それで決心した。
あるだけのDearDreamの現場に行く。推しの現場に行くんだ。
それから、ダブルバイトを始めた。塾講師のコマ数も増やした。
初めての飲食バイト。友人の紹介ですぐに入れてもらえて、効率のいい深夜の遅番。塾講師を10時で終えて、そのまま2時まで居酒屋、とか。週5でバイト。
週末は遠征と、課外活動。
昼間は講義に加えて、活動のミーティング。
ドリフェス!に夢を救ってもらったので、夢に向かうことをおろそかにしたくなかったし、よりもっと頑張りたい!って思っていたから、オフなんて月1回あったらいいってスケジュール組みをした。
身体の自由もなかったけど、頭も常にフル回転。
それでも増えた自由なお金でグッズ買って、遠征して、思い出が増えていくのが嬉しくて、毎日楽しかった。もうそれはそれは楽しかった。
ただ、心配してくれた友人の忠告を聞いておけばよかったなって思う。
6月、ついにキャパを超えて、ぶっ壊れた。
毎日飲んで、酔わないと寝られず、電話で母親に毎日がつらいと何時間も泣いて話した。時間の余裕もなければ、気持ちの余裕もなくて、もう限界だった。
これはわたしの事情だし、全然関係がないけれど、
でもそれだけ、ドリフェス!にエールが送りたくて愛を注ぎたくて、そういう気持ちだったんだ。
あのキラキラをいっぱい見たくて、終わりなんて覆したくて、
特にドリフェス!ってファンのアツさと行動がすごいから、その一員になりたかった。
ファンの仲間入りがしたかった。
夢を追いかける彼らがかっこよくて、自分も頑張りたかった。
全部頑張ろうとしたら、そうなってしまった。活動内容も濃くなって責任も増していたから時期も悪かった。
母に結局来てもらって「バイトしなくてもいいから、やりたいことはやりなさい。助けるから」と言われ、甘えることにした。
そこからは、バイトを減らして、できる限りの最大限を目指した。
ドリフェスへの熱は増えるばかりであったし、個人の舞台にも行ってみたくて、月1は遠征していたけれど。
ここからは、お金との闘いだった。
母に援助してもらってまで無駄遣いはできない。どうしても欲しいもの見たいものに厳選するとか、大阪公演は行くとか。母にはその都度報告していた。
正直に言って、東京都民、その周辺住民がうらやましくて仕方がない。働いているひとがうらやましくて仕方がない。
お金も時間もかかる。どうしようもないことだから、どうしようもなくつらかった。きっと地方民はみんなそうだと思うけどさ。たたかってるんだよ、欲と理性。
行けない買えないってことから、ああ自分はプロジェクトに、推しに貢献できてないって気持ちになった。
TLで舞台の話が出る。観覧、試写会、目撃情報、コラボ。知れることは嬉しかった。ネットあって良かったなって思う反面、うらやましかった。そして何より、悔しかった。
わたしはたった半年の新参だから、過去の彼らも全然知らなくて、ドリカ手渡し、ファンミなんて知らなくて…ファスライだって円盤じゃわかんないこと、いっぱいあるでしょ?
キャスト7人はなおさらだし、キャラ7人だってそうだ。
アプリ、全然できなかった。純哉くんを100レベルにするのがせいぜいだった。
ネットのファンのツイートなんかが、わたしの情報の大半で、だからわたしは他人の言葉で14人のことを語ることが多くなる。
気持ちは負けたくない、でも知識と経験は圧倒的に負ける。
彼らと過ごした時間の長さは、やっぱり愛だ。
愛に順位はなくて、「分かちあった深さ」が大事だ絆だって歌ってくれても、分かち合うには相手をいっぱい知ることが必要なんじゃないだろうか、それも時間を共にして自分が直接受け取ったものが。あなたを分かるにはきっといっぱい知らなきゃ見なきゃいけないとわたしは思うんだよ。
特にわたしの推しはそうだって、他の方のブログを見て痛いほど思った。悔しい。
仕方ないのはわかってても、嫌なもんは嫌だ。推しのことは誰より知っていたいと、分かりたいと、最近そんな感情も芽生えるようになった。
アイドルなんて、俳優なんて微塵も興味なかったのに。
だからすごくすごく苦しかった。
シンプルに、お金使えないこともつらい。今だってそうだ。
本当はジャージも、ネックレスも、推し以外の誕生日グッズも欲しい。アクスタや円盤の複数買いがしたい。追いブロマがしたい。
でももう破産手前だ。武道館もやりたいことをやったから、本当に資金は底をついた。
数がどれだけ大事か痛いほどわかったのに、数に貢献できないなんて。
ソシャゲ戦国時代、愛は金じゃないけど、金は愛だと散々分かっている。わたしもそう思ってきた。
だからこその申し訳なさと、悔しさと、自分はファンになれているのかの不安。
買っているみんながもはや憎らしい。なんで自分は学生なんだろうか。
だんだんそういう黒い感情がわいてくる自分も、みじめで仕方がない。彼らと年がほとんど違わないし、光だから、なおさら。
10月21日までは駆け抜けて来たから見ないフリもできたものが、今はじっくり向き合えてしまって、落ち込むばかり。
いま改めて、自分の中途半端さに辟易している。
TLには大先輩がいて、貢献してきたひとたちがいっぱいいて、
わたしってどうだったんだろうか
壮馬くんはたしかにあのとき言ってくれたけど、
わたしは、ドリフェス!の一員に、なれていたんだろうか
推しです!と、言えるくらい、彼を推せていただろうか
わたしは、とみーが好きだけど、まだ彼がわからない。語れるほど、彼を知らない。
彼を3年前から知るひとのブログを読んで、なおのこと、悲しくなった。
そして、みんなは武道館ライブで、3次元のそばに、2次元のみんなが見えたと言った。
わたしには見えなかった。特に、推しに関して。それもまたすごく悔しい。
わたしには、5次元を体感するほどの想像力と思い入れが足りなかったと思ったから。
黄色い光の中で堂々ソロで歌うとみーはとみーで、わたしは彼のまぶしい笑顔に魅了されていた。
決して純哉くんが見えてははいなかった。
あの時間、楽しそうなとみーに笑顔をもらった。
きっとそれでいいんだろうと思うけど、なんでかそれを21日の夜、書き込めなかった。
これまでも他人の言葉を使って、ずっと5次元すごい!って言ってきて、
5次元のファンでいたかったからかもしれない。
ファンであるか、不安だったから。
阿呆なことをしたなと思った。みぞたくが、歌についてだけどさ、受け取り方はそれぞれだって言ってくれてたのにね。受け取った人のものになると。ファンのみんなも、想いはそれぞれだよねって言ってくれてたのにね。
そういうことも含めて、なんだか悲しくなった。もっと前から知っていたら、違っていたかもしれないなって思ってしまって。
自分は、ドリフェス!を愛しきれなかったと思ってしまったことと、後悔があることに、悲しくなってしまった。
悲しい苦しい悔しいばかり言っているけど、
楽しかったんだ!
楽しかった!
ここまでの知ってからの1年、大好きになってからの半年。
壮馬くんが言うように、わたしにとって得たものばかりだった。新しい経験、知識、飛び込む勇気、夢を見る希望。フォロワーさんとの出会い。
武道館本当に楽しかったんだ。
失ったものなんてないって本当に思える。
これからもドリフェス!を推して、キャラ7人を愛して、キャスト7人の各々の道を見守りたい。
ああもう大好きだ!って気持ちがほとんどなんだ。間違いないんだ。
この確信と共に、明日を歩んでいきたい。希望は持っていたい。
「またね」を信じて。明日が来なきゃ、またね、は生まれない。
だからわたしは、このくやしさも、たくさんの得たものを大事に抱えて、明日を生きる。
初めて好きになったアイドルに「夢」を救われた話
いや~またもや台風でしたね
マジで台風くん休日出勤はやめな?ブラック企業勤めなの?
そしてそして、わたしにも再び嵐がやってきてしまったんですが。気まぐれが続くの珍しいので褒めていただきたい所存。
そういえば、前回はあまりにもタイトル詐欺だったので、ちゃんと内容に合わせることにした。本当にゴメンナサイ
勢いで書くのはみんなやめような!死ぬほど恥ずかしい思いする
今日の話は本当に個人的で、取り留めない話なんだけど
このネットの海で漂って、そのうち打ち上げられて、誰かが拾ってくれるといいななんて思っている。そしてそんな誰かの心に届くと信じているわけです。わ~ロマンチックやな~~
この前はスベり芸人でしたが、今日は気色悪いロマンチストなのでお気を付けください。
余命2週間の女のお見舞いだと思ってみてね(重たい)
前回、「初ライブで5次元ワールドとアイドルのキラキラに惚れた」って話しをした。
でもそれだけではなくて、心動かされた理由がもうひとつある。
それは「彼らのユメノコドウを聞いてしまった」から。
言い回しがクサくて申し訳ない。この年で黒歴史増やしたくなかったな~!
彼らの夢の輝きを見て、私自身が再び夢に向き合う気持ちと、明日に行く力もらってしまった。
命の、は大袈裟すぎるが、
彼らは私の「夢の恩人」なのである。
当時のわたしと言えば、
夢を追いかけて一人縁も所縁もない土地に来て、2年くらい、走り続けていた。
走り回った末にやっと1つのところに落ち着いて、そのあともいろんなことがあったけれど、なにより大好きだったし、なにかが得られるはずだって走り続けていた。
そうしたら、続けていくうちに、ぶつかるべきところにぶつかった。
余談ではあるが、わたしの専攻は「地方創生」とか「地域活性化」とか呼ばれる、超流行りの学問だ。たぶん。国が推してるし。たぶん。
「地域活性化ってなに?」……根本であり、すべての関係者が追い求めている問いに、
向き合わなきゃいけないし、答えを見つけなくてはいけない。岐路に立たされていた。
さらに、一気に自分には重すぎる大役を受け取る…ことになるだろう状況にいて、
ぶっちゃけ言う。冷めていた。キャパ超えて、疲れたんだろうな~
実際の現場に立ち、現実に打ちのめされて、夢の幻想から覚めていたっていうことがいちばん正しい表現かな。子どもの無邪気な憧れと勢いだけでやれるものじゃないことに、分かってはいたけど、それを学びに来たわけだけど…実感として気付いた。
ずっと闇から目を背けて走ってたが、いざ足元を見たら闇に飲み込まれてしまったというか、自信は失くすわ、このままでいいのか本当にわからなくなった。
と言うような状況にいた。思い出してもしんどい。
明日?来るな!時とまれ!なにもしたくない。おうちに帰りたい…😢
そんなときに運命的に出会ってたのが、彼らだった。
「DearDream」
メチャクチャいい名前だな!って今は思うけど、
正直なところ、現代らしくない、真っ直ぐすぎる名前だな~って当時は思っていた。酷いこと言うとダサイって思っていたし。
前回お話した通り、彼らはもともと若手の俳優で、アイドルなんてやったことないし、ほぼ何もかも初めてで、
そんな中で夢を見て、悩んで、それでも全力で必死に走り続けてきた人の集まりだった。
図々しいことを言うと、そんな彼らに共感に近い気持ちを抱いた。尊敬の念と。
汗だくになりながら全力で踊って、歌って、喋って、手を振って。
ファンを真っ直ぐに見つめてくる。ありがとう!って伝えてくれる。
ライブで「見えてますよ!1階も2階も全部!」って言ってくれるんだが、本当に見えている。ファンのペンライトも笑顔も、うちわも。MCで薄紫担当の正木郁くんが「ネイルまで僕の名前入れてくれている」って言ってて、本当にびっくりしたな。
こんなにエールを受け取ってくれるなんて、思ってもみなかった。
最近のインタビューでも語ってるけど、
「スキル的にも体力的にもギリギリで、いつも全力でやって来た。地道に真剣に。その必死さが僕たちの根底にある」
この必死さ、ものすごい。
真っ直ぐに向き合って、やれるだけのことをやって、出し切って、
夢に向かってがむしゃらにやってきたっていう証が、いっぱい見えた。
ステージの光だけじゃない。それを超えた本人たちの輝きに目を奪われた。
わたしは?輝けてる?夢は……
と!ここで省みていれば良かったのだが、この時はその不安を埋めようと、彼らの夢を一緒に見始めてしまったわけである。アチャー
でもとにかく、明日への活力を失っていた私にとってはかけがえのない出逢いで。
彼らは、夢を見させてくれるのではなく、一緒に見る夢をくれる存在。
「さあ一緒に行こうよ、笑って!」って、明日に連れて行ってくれる存在。
夢の輝きがどれほどに美しいか、でもそこまでの道がどれほどに険しいのか。それを改めて教えてくれる存在だった。
もっとエールを送りたい、彼らの活動が見たい、成長が見たい。
そんな夢の先、明日が楽しみで仕方なくなって…
死にかけていたわたし、なんとか生きる希望を見つけた。
いや、「ユメノコドウ」ってなんやねん?よくぞ聞いてくれました!
ツアータイトルであり、3rdシングルである「ユメノコドウ」
MV見てね。イケメンがいっぱいコレクション。
夢の鼓動。
鼓動…目には見えないけど確実にあって、胸に手を当てたら聞こえるんだよな。
私を動かすもの。生きる力。刻み続ける、生命の音。
生きるって、明日へ進むということ。でもきっと明日に進めてないのに、生きてることもある…
なんだかまさに、その時の私に必要なものだった。
ユメノコドウ、歌詞を見てほしい。ホントは全部引用したいくらい。
歌い出しのココとか
あの日誓った旅立ちは 願いは
続いてる 煌きへと
この歌がDearDream自身の歌であるのは、まあ後半でなおのことわかるのだが、
親愛なる夢に導かれて、夢の鼓動を刻んで、明日・未来へ向かっている自分にとって
彼らの歌がものすごく響いた。
「シンアイなる夢へ!」で、
バカみたいに真っ直ぐ進んでいいのは(Free like air!)
青春の特権ってヤツってことで!(Hello,my dream!)
始まる予感に胸熱くなっていく
ここまで突き進んできたことを肯定してもらったり。
手を引いてもらったり。ほかにもいっぱいもらったんだけど。
いっしょにがんばってこうよ!夢に向かって!って言ってくれてて、涙が出た。
明日が来れば、彼らのTwitterが更新されるし、
1週間待てば、彼らのラジオが聞けるし、
2週間待てば、彼らのイベントに参加できる。
鼓動を刻む心臓が、完全にDearDreamになってしまうとは思ってもみなかったけど、
彼らのおかげでたくさんの出会いと経験をもらうことになる。本当にいっぱい。
次回、田舎のイモっころ、都会デビュー!!な、おはなしの予定。
これはまた次の気まぐれで。